2015年12月22日

子宮頸がんスクリーニングに関して

タレントで弁護士の大渕愛子さんが、子宮頚部の高度異形成にて手術をうけると報道されていました。高度異形成は上皮内がん(0期のがん)も含みます。それ故、円錐切除と言われる手術をして、病変部を取り除きます。
子宮頸がんは、早期発見によって死亡率を低下できるがんの筆頭です。特に上皮内癌の段階で見つかった場合は、ほぼ100パーセントの生存率が期待できます。それ故、WHOでも子宮頸がんのスクリーニングを世界的に啓発しています。また、厚労省助成を用いて行われた研究班もガイドラインの中で、子宮がん検診の有効性を強調しています。

子宮頸がんの原因の一つにHPV(ヒトパピローマウイルス)感染症の関与が指摘されています。子宮頸がんの多くは開発途上国で発生しますが、先進国でも若年層を中心に増加傾向にあります。

このように、早期に発見すればほぼ100%治ると言われているがんですが、我が国の検診状況は、というと、欧米諸国と比して、遅れをとっているのが現状です。
欧米諸国の子宮頸がん受診率は50%以上であるのに比して、我が国は40%に満たない状態です。

なぜ子宮頸がん検診を受けないのか、という理由の第一位は、「見つかったら怖いから」というものでした。
こうした反応が出てくるのは、「早期の子宮頸がんはほぼ100%完治する」という事実が、きちんと伝わっていないからだと思います。


検診による早期発見が、死亡率を低下させるというエビデンスを、国民に周知徹底させる啓発活動が、より活発に行われる事を望みます。

2015年10月13日

乳がんスクリーニングは効果があるか vol.3

女性芸能人の一人がご自身の乳がんに関する情報を明らかにし、乳がんに対する社会的関心は高まっているように思います。

乳がん検診に関しては、私自身いくつか記事を書きましたが、あらためて検診(スクリーニング)の有効性、社会的インパクトなどに関してまとめたいと思います。

(乳がんスクリーニングは効果があるかVol)

(乳がんスクリーニングは効果があるかVol2

(「乳がん検診、TBSに医師らが中止要望」はどんな意味があるが)

折しも、米国予防医療サービス専門作業部会US Preventive Services Task Force:以下「USPSTF」)が、乳がんスクリーニングに関して、20154月に改定を出したところです。

USPSTFは、世界中の乳がん検診における有効性に関する論文を精査し、定期的に改定を出しています。というのも、乳がん検診における有効性(マスとして死亡率をどの程度低下させるか)、また、有効だったらどのようなスクリーニング手段が良いか、また、そのスクリーニング検査によって引き起こされる負のリスク(疑陽性率など)が、完全に解明されていないためです。
最も大きな影響を世界の乳がん検診政策に与えたものの一つが、2009年のガイドライン改定です。前述した記事にもありますが、それまでは有効性が高いとされていた、40歳代のマンモグラフィによる乳がん検診が、費用効果的に高くなく、国民全体に対する検診スクリーニングとしては推奨されない、というのが大きな改訂のポイントでした。マンモグラフィによる検診頻度も、12年に1回から、2年に一度に変更されたことも、世界の医学会に大きなインパクトを与えました。

今回の20154月の改定はさらに厳しいものとなっています。要約すると、「5074歳のマンモグラフィによる、2年に1度の検診を勧奨する」というもので、今まで全体スクリーニングの対象となってきた4049歳の女性に関しては、自己判断で検査を受けるべきとしています。その背景としては、現在までのエビデンスの見直しがあります。

概要は以下の通りです。
1. マンモグラフィが、3969歳までの乳がんによる死亡率を減少させたというエビデンスは不十分。
2. マンモグラフィによる疑陽性(本当は乳がんでないのに乳がん疑いとして判定される事)、さらなる画像検査を要することは少なくない。
3. 医師による視触診ならびに自己チェックによる利点は示されていない。


我が国では、年間約89千人が新しく乳がんにかかっています。そして、平成25年厚生労働省の統計によれば、約1.3万人(10.5/100,000)が乳がんにより死亡しています。
どういった原因で乳がんにかかるのかは、全て解明されてはいませんが、遺伝、人種、生活習慣、妊娠出産の有無などがかかわっているといわれています。

日本では、がん検診という制度があり、この歴史は昭和30年代にさかのぼります。前述した米国の動きなどから国はその制度の見直しを始めており、平成279月には、「がん検診の在り方に関する検討会中間報告書~乳がん検診および胃がん検診の検診項目などについて~」をまとめています。
厚労省の乳がん検診項目に関する提言としては、以下の通りです

1. マンモグラフィによる検診を原則とする
2. 視触診については死亡率減少効果が十分ではなく、精度管理の問題もあることから推奨しない。仮に視触診を実施する場合は、マンモグラフィと併用することとする。
3. 超音波検査については、特に高濃度乳腺の者に対して、マンモグラフィと併用した場合、マンモグラフィ単独検査に比べて感度及びがん発見率が優れているという研究結果が得られており、将来的に対策型検診として導入される可能性がある。しかしながら、死亡率減少の効果や検診の実施体制、特異度が低下するといった不利益を最小化するための対策などについて、引き続き検証していく必要がある。
4. 対象年齢:40歳以上とする
5. 検診間隔:2年に1度とする

今まで論じたように、乳がん検診に関しては、「できるだけ早い年齢から年に一度の検診」から、「限られた年齢層をターゲットとした、きめられたスクリーニングツールでの検診」という流れに変わっています。
がん検診(スクリーニング)は、国や地方自治体の税収、すなわち、私たちの税金で賄われます。それ故、全体として費用対効果がない検査を導入するのは、意味がありません。また、マンモグラフィによる乳がん検診で永らく指摘されているのは、その疑陽性率の高さです。
もし、若い年代に、間違って「乳がん疑い」と診断されれば、たとえのちに乳がんでないと判明したとしても、それが判明する間、大きな不安を持って待つことになります。また、次の年も、「もしかしたら、乳がんが発生しているかもしれない」といった不安が大きくなり、その精神的影響は大です。

日本のがん登録制度は、欧米の大規模コホートなどと比較するとその網羅性から、信頼度が低いと言われています。このがん登録制度を充実させることは不可欠です。また、今まで、法に基づいて行われてきた、健康診断(がん検診も含む)におけるデータは、世界に類を見ない包括的なものです。こうしたメガデータを活用し、未だ答えが出ていない、「乳がん検診はやったほうが良いのか。そうであれば、どんな人にどういったやり方で行うのか」という命題に大きく貢献することになります。

国は、こうしたデータの開示を速やかに行うとともに、世界中の研究者に解析できる環境を提供させることが必要です。それがひいては、国民個人の利益につながるのですから。

2015年10月7日

オンコセルカ感染症とイベルメクチン

昨日、大村教授がノーベル医学生理学賞を受賞しました。オンコセルカ症は日本ではなじみのない寄生虫疾患ですが、その治療薬であるイベルメクチンの果たした役割を中心に論じでいきたいと思います。

オンコセルカ症は、Onchoceca volulus感染したブユに刺されることによってヒトにうつります。オンコセルカ症の99%はサハラ以南アフリカ(31か国)で発生しています。また、ラテンアメリカやイエメンでも症例がみられます。“河川盲症(River blind)”ともよばれ、川岸でブユに刺されて感染し、失明することがあります。オンコセルカ症の患者は年間1800万人といわれ、そのうち27人が失明すると報告されています。特に、途上国の子どもの失明原因として、重要な疾患です。


オンコセルカ症には有効なワクチンも予防法もありません。このため、WHO(世界保健機関)1974年から2002年にかけてアフリカ地域オンコセルカ制圧活動を行いました。この結果、4000万人がこの病気から救われ、60万の失明を防いだとされています。特に、1800万人の新生児失明を未然に防いだインパクトは大きく評価されています。

この制圧活動に大きな役割を占めたのが、イベルメクチンです。イベルメクチンの発明まで、制圧活動は寄生虫駆除のための殺虫剤空中散布でした。これは人体にも影響があることは明らかです。こうした人体への影響をほとんど心配することなしに、オンコセルカ症の治療ができるようになったことは、いかに大きなインパクトを与えたかは想像に難くありません。こうしたイベルメクチンの効用は患者を治すだけにとどまりません。
殺虫剤散布で汚染されるところだった、2500ヘクタールの農地が救われ、1700万人を飢えから救ったのです。

世界中には、多くの感染症があり、人々を苦しめています。マラリア、結核、HIV/AIDSWHOが最も重要視している疾患といえるでしょう。しかしながら、これらの三大感染症以外にも、多くの感染症が途上国に住む人たちの大きな問題です。これら、あまり注目されない感染症は、NTD(Neglected tropical Diseases)と呼ばれます。

NTDはその症例数や広がりにおいて、マラリアなどよりはインパクトが低いと評価されがちですが、今回のオンコセルカ症のように、生まれながらの見えない子どもたちを増加させる重要な疾患ばかりです。

2015年、ゲーツ&メリンダ財団は、オンコセルカ症を含む寄生虫疾患対策の重要性を書面でWHOに対して強調しています。

疾病コントロールには、予防のツールである予防薬やワクチン、また治療薬の開発が必要です。製薬会社は、高血圧や糖尿病といった、費用対効果が目に見えてすぐれている薬剤に目を向けがちです。しかし、イベルメクチンのように、長期的に見た場合、その地球規模でのインパクトが大きい疾患に対して、力を注いでほしいと思います。

2015年9月28日

肝内胆管がんについて~どうやって予防するか~

先日、ある女優が肝内胆管がんで亡くなりました。54歳という若い年齢からも、衝撃
を受けた方が多いと思います。

そこで、今回は肝内胆管がんについて、書こうと思います。

胆管癌は胆管の上皮細胞から発生する悪性腫瘍です。脂肪などの消化を助ける胆汁と
いう物質は、肝臓で作られ、胆管という管を通じて、十二指腸に送られます。このた
め、胆管には、肝臓内にある「肝内胆管」と肝臓の外にある「肝外胆管」にわかれま
す。このため、胆管癌は、発生した胆管の部位により、肝内胆管がんと肝外胆管がん
の2種類に分けられます。一般的に「胆管がん」というと、主に肝外胆管に発生し
たがんを指します。これは、肝内胆管は肝臓内にあるため、肝臓にできたがんとし
て、肝細胞がん(略して肝がん)と一緒に取り扱われることが多いです。肝臓にでき
るがんの多くは、肝がんといわれる、肝細胞がんは、肝臓にできるがんの90%以上を
占め、管内肝肝がんは肝臓のがんの中では頻度は少なく、3~7%程度と言われていま
す。

国立がん研究センターによる2015年のがん死亡数予測では、胆嚢・胆管がん死亡は、
男性で9500人、女性9700人とされています。肝内胆管がんはやや男性に多いとされ
ています。また、欧米人と比べて、アジア人が罹る率は高いことがわかっています。

肝内胆管がんの原因はよくわかっていませんが、肝内結石症、原発性硬化性胆管炎、
肝寄生虫症、トロトラストが危険因子とされてきました。近年はC型肝炎との関係も
報告されています。

胆管がんは胆汁の通り道である胆管(直径約1cm)にできるがんなので、腫瘤とい
う、”いぼ”のような状態で発育した場合は、比較的早い段階で胆汁の流れが悪くな
り、顔や体が黄色くなる、黄疸症状がでて見つかることが多いといわれています。し
かし胆管粘膜上皮から発生した場合、インクが紙にしみこむようにして広がるため、
胆汁の流れを妨げることなく進行するので、進行するまでほとんど症状が見られない
こともあります。予後を示す5年生存率(5生率)は、30~50%と予後が厳しいがん
といえます。

胆管がんは進行も早く、肝臓機能障害によるかゆみや白色の便、目や皮膚が黄色くな
る黄疸が現れれたときには、既にかなり進行している場合も多くあります。このよう
なステージになると、手術で取ることが不可能になることも少なくありません。他に
全身の倦怠感や食欲不振、腹部や背中、腰などに痛みを伴うこともありますが、「こ
れが胆道がんだ」という特異的な症状は乏しいのが特徴です。また、胆管は直径が細
いため、超音波検査などの通常、人間ドックなどで行われる検査では見つかりにくい
という問題もあります。

早期発見、早期治療はがん治療の鉄則ですが、肝内結石などの危険因子が存在してお
り、これを防ぐのは予防策の一つと言えます。肝内結石とは肝臓のなかの胆管(たん
かん)に結石ができる病気で、欧米に比べ日本を含めた東アジアで多くみられます。
コレステロールなどの脂質代謝とはあまり関係がなく、欧米人より日本人のようなア
ジア人に多いことから、地域特異的感染症、遺伝などの影響が示唆されます。

このようにまだ多くがわかっていない肝内胆管がんに関しては、今後さらなる疫学調
査が必要だと思います。原因解明が進むことが、その疾患の予防につながるからで
す。

2015年6月16日

サイバーセキュリティ対策に関して

 年金情報が外部からの攻撃によって流出した、という事実は大きな社会問題として取り上げられています。さらに、東京商工会議所でも、コンピューターウイルスを介した感染により、会員情報が外部に漏れるという事件も生じています。そこで今回は、我が国のITセキュリティはどうなっているのか、論じることにします。
こうした、「情報」に対する攻撃は、インターネットが普及しだした1990年代から増え始め、現在では、攻撃の手段も巧妙化しています。ITネットワークに対する攻撃は、個人のみならず、企業、団体、ひいては国家の脅威となっており、国家レベルの攻撃に及んだ場合、サイバーテロと呼ばれます。警察庁はこれを以下のように説明しています。
“サイバーテロとは、重要インフラの基幹システムに対する電子的攻撃又は重要インフラの基幹システムにおける重大な障害で電子的攻撃による可能性が高いものとされており、一般的にはコンピュータ・システムに侵入し、データを破壊、改ざんするなどの手段により、国家又は社会の重要な基盤を機能不全に陥れる行為をいい、サイバー犯罪の中でも最も甚大で深刻な被害を及ぼす危険があると考えられています” http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/haiteku/cyber/cyber.htm
 
 世界にサイバー攻撃の重要性を認識させたのが2009年に起こった、米韓政府に対するサイバーテロでした。我が国は2005年に情報セキュリティ保護に帰するため、NISC(National center of Incident readiness and Strategy for Cybersecurity:内閣サイバーセキュリティ)を発足させました。しかし、2011年、防衛産業の一角を担う三菱重工票がサイバー攻撃を受け、大きく報道されました。この事件後、衆議院議員のパスワードが盗まれていた可能性や、外務省の在外公館のコンピューターにウイルス攻撃にあったことなどが、明らかになりました。時代が進むにつれ、サイバー攻撃も進化し、DDOS(Distribute Denial of Service:分散サービス拒否)から、より重篤な標的型攻撃へと変わって行きました。国際社会はサイバーセキュリティの問題に対しては早くから反応しており、2001年にサイバー犯罪条約を採決しています。日本では欧米に遅れて、2012年に正式批准されました。

 情報に関しての重要性は、フランシス・ベーコンの「知は力なり」という言葉に集約されています。経験論と科学的方法を主体とした考えは、近代の情報戦の基礎となりました。米国国防省の情報認知局(Information Awareness Office)は そのロゴに、scientia est potentia(knowledge is power)を用いていることからも、現代の国防に情報はもっとも重要なものであることがわかります。実際、米国が大戦で日本に圧倒的に勝利したのも、日本の暗号化された情報を、ほぼすべて把握した事が大きく影響している、といわれています。こうした苦い経験を持つ我が国のサイバーセキュリティは十分かと言われれば、そうとは言えないのが現状です。

 第一に予算の問題です。アメリカ合衆国と日本の国家予算は国民一人あたりについていえば、それほど変わりません(2015年人口はアメリカ:日本は、約2.4;1)。しかしながら情報セキュリティに係る日本の予算は、585億円(2016年)です。これに比して米国は140億ドル(約1.7兆円)という2016年大統領予算を示しています。

我が国では、2015年から2016年にこの分野の予算は100億円以上の増加を示しており、政府として重要視している分野であることは確かです。しかし、様々な目的に使われる予算の中で、どの分野に予算を多くあてるかは、国がその部分をどれだけ重要視しているかの現れですから、依然として存在する両国間の大きな差は一目瞭然と言えるでしょう。

 二番目の問題は、体制に関することです。20097月、米国と韓国政府は同時攻撃を受けました。韓国のサイバーテロ対応は、政府部門、民間部門、軍事部門の3つに分けられています。この3部門の総括をするのが国家サイバー安全戦略会議です。この安全会議は、2004年大統領令によって発足され、その議長となる国家情報院長には絶大な権限が付与されています。2009年のサイバー攻撃以降、その体制は強化され、実効的なガバナンス機能を有するモデルと言われています。我が国のNISCは当初のNational Information Security CenterからNational center of Incident readiness and Strategy for Cybersecurityと名前を変え、国家の危機管理組織として成長を遂げています。しかし、NICSstake holdersとして、警察庁、防衛省、総務省、外務省、経産省など多数の組織が関わり、予算立ても各々によって別立てです。こうした仕組みでは、どこが責任母体なのか曖昧になり、効率性を欠くことになります。クリントン政権時代、初代FEMA Federal Emergency Management Agency:アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)長官を務めたジェームズ・ウイット氏は、講演で、我が国の危機管理体制について以下のように言及しています。「日本においては、多くの異なる省庁が異なる責任をもっているようである(中略)どこが総括的な計画をもっているのか、どうやって一緒に協力していくか、どうやって資源を調節するのか。中央のレベルから実際の地方のレベルまでどのように協力し、どうやって一定の資源から最大の効果を引き出すのか。資源は限定されており、いかにむだを省くかなど計画はあるのかがはっきりしない」サイバー攻撃対する対応についても、この言葉が当てはまるといってよいでしょう。国家の危機にあたっては、各省庁間の枠を取り払い、迅速かつ効率的、効果的な活動ができるようにすることが緊急の課題と言えます。
 最後の大きな問題はsecurity clearanceです。各国のサイバーセキュリティ対策はインテリジェンス(諜報機関)が主導で行われているため、政府、民間を問わず、秘密保持制度が整備されています。我が国にはインテリジェンス部門をどこが担当しているのか明らかになっていません。2010年の尖閣諸島に関する画像流出問題をうけて、特定機密の保護に関する法律を成立させました。しかし、今回の年金流出問題から、これほど重要な個人情報保護に関与している職員が、単なる国家公務員法違反のみによって処分されるだけで、刑法などには抵触することがないことからも、そのセキュリティクリアランスの認識が十分でなく、それ故法整備を含めた対策が、他の先進諸国と比して遅れをとっているのが現状ではないか、と思います。情報がその国の存亡を左右することから、今後抜本的な意識改革が求められる分野だと考えます。

 また、事件が起きた際、その状況を認識し、原因解明を行うととともに、その背景に関する想像力が必要です。今回の個人情報流出に関して、ある特定の国の関与が取りざたされています。その国の関与の有り無しは別にして、もしそうであった場合のその国や、周辺国の意図、今後の影響や再び同様の事件が起こらないか、などの討議が徹底化されるべきであると考えます。この部分が我が国のもっとも弱いところであり、力を注ぐことが重要でしょう。

2015年6月11日

MERSウイルス感染症、韓国流行をうけて(2)

韓国の医療機関で発生しているMERSコロナウイルス感染症を巡って、台湾が韓国への渡航制限を打ち出しました。
こうした中、日本でも、韓国への渡航が縮小してきているとのことです。こうした措置が感染拡大をどの程度防げるのかは、定かではありません。それは、渡航制限や国境閉鎖などに代表される、所謂水際作戦によって、完全に封じ込められた感染症は、今までに存在しないからです。特に口や鼻からウイルスが入ることによって感染する、呼吸器感染症に関しては、こうした封じ込めが効果を示すという根拠は、その感染形式からも考えにくいのです。

14世紀から15世にかけて猛威を振るったペスト流行の際、ヨーロッパの国々は、流行地から来た船を40日間停めおきました。これが検疫(Quarantine)の語源となっています。しかし、結果的にペストから免れた国はありませんでした。また、呼吸器感染症として多くの命の奪ったスペイン風邪(インフルエンザ)に対しても、輸送機関の停止、国境閉鎖、集会の禁止などが行われましたが、その効果に関しては定かではありません。

感染症には潜伏期間という、無症状の時期があり、多くの感染症はその無症状期にも、他の人に感染します。ですので、どんなに国境(空港)でシャットアウトしようとしても、すり抜ける人は出てきます。実際、2009年の新型インフルエンザ(当時)流行の際も、他省庁、国立病院の医師などを巻き込んだ検疫強化が実施されました。しかし、初発例は国内で見つかった高校生でした。

検疫に代表される水際作戦の基本は、“国内にウイルスが侵入することを食い止める”ことです。このこと自体、極めて困難なことが、前述した歴史が物語っています。今2009年のインフルエンザ流行時、また今回の韓国におけるMERS流行に際しても、WHO(世界保健機関)は渡航制限などをかけてはいません。それは、水際作戦には限界があるとともに、海外封鎖を行うことは、人の流れを止め、経済活動に大きな影響を与えるからです。

我が国には感染症に係る法律が2つあります。それはすなわち、検疫法と感染症法です。検疫法に従って検疫強化がされますが、ひとたび国内発生が認められれば、感染症法が主流となり、実働は国から地方自治体に移ります。見方をかえれば、国内に入るまでは国家公務員である検疫官(厚労省職員)が主動であるため、国としては力を注ぎますが、国内に入れば検疫法は適応されないため、実働は国家公務員ではなく地方公務員や、医療機関になります。この状況では、国は通知文書などで、地方自治体に指導することが主な仕事となり、自ら防護服に身を包んで動き回る、という事もしなくなります。

この2つの感染症にかかる法律の棲み分けが、大きな問題となっています。すなわち、国は自らが活動する場面である”水際対策“に力を注ぐあまり、国内対応に対する関与が極めて希薄になっているのです。国内で発生した場合は、その地方自治体、ひいては患者が収容された医療機関が責任の受け皿となります。

MERSコロナウイルス感染症は、感染症法で、第2類感染症に分類されています。法律上は、特定感染症指定医療機関、第一種感染症指定医療機関の他、第二種感染症指定医療機関でも入院して診ることができます。

第一種と第二種指定医療機関の大きな違いは、空気感染を想定するかしないかです。すなわち、第一種(特殊も含む)感染症指定医療機関には陰圧設備があり、ウイルスに汚染した空気が外にでないようになっていますが、第二種感染症指定医療機関で、このような空調設備は必要とされていません。第二種感染症指定医療機関の総ベッド数は1716床(335医療機関)ですが、そのうち陰圧設備を備えているのは529床というデータがあります。

MERSコロナウイルスは2類感染症に分類されているため、第二種指定感染症指定医療機関に収容可能です。もし、MERS感染者が陰圧室のない医療機関を受診したとしたら、ウイルスで汚染した空気が院内に循環する確率が(第一種指定医療機関と比して)高くなることは想像に難くありません。第二種指定医療機関には感染症の患者さんだけが入院しているわけではなく、がんなどで免疫能が低下した人が多くいます。それ故、このような医療機関にMERS感染症を受け入れることは、法律上は問題なくとも、医療上大きな問題をはらんでいることになります。

全国には17万以上の医療機関があり、感染症指定医療機関と言われるのは、この中のごく一部にすぎません。また、医療機関ごとに、MERSや感染症に関する意識もまちまちです。韓国の症例でも明らかになったように、MERS感染者は、「自分はMERSに罹っている」と申告して医療機関を受診するわけではありません。風邪、インフルエンザに似た症状を示すことから、個々の医療機関が、自分のところにMERS患者が来るかもしれないという意識を持つことが、院内感染に対する重要な予防手段だと思います。また、そうした意識の定着と、この新たな感染症に対する知識を広げるために、国、地方自治体、学会など、医療機関に向けた徹底的な啓発活動が、何よりも早急に行わなければならないことだと思います。


繰り返しますが、検疫による水際食い止めに力を注ぐあまり、国内対応がおろそかになることは絶対に避けなければなりません。国は国家国民を守る使命があることを、再確認することが必要です。

2015年6月9日

MERSウイルス感染症、韓国流行をうけて

MERS(Middle East Respiratory Syndrome Corona-virus:中東呼吸器症候群が韓国の医療機関で流行しています。
あまり聞きなれない名前ですが、2012年にサウジアラビアで初めてみつかった、新しいウイルスで、2002年から2003年に流行したSARS(重症呼吸器症候群)と同じ、コロナウイルスというグループに属します。

2012年から2013年には、中東を中心に、世界で流行しました。その際、中東からの滞在者からの感染がほとんどでした。ラクダの感染症と考えられていましたが、2013年にフランスとイギリスでの症例については、限局的なヒトヒト感染によると報告されています。ヒト、ラクダの他、ブタ、コウモリなどでも感染が確認されていますが、何分新しいウイルスですので、不明なところも多いのが現状です。MERS ウイルスの生体外での安定性については、低温で低湿度の場合、48時間程、安定性(生存性)が持続するとの報告があります。http://www.eurosurveillance.org/images/dynamic/EE/V18N38/art20590.pdf

典型的なMERSの症状は、発熱、咳で、下痢などの消化器症状もみられます。重症化すると、肺炎、敗血症、臓器不全(特に腎不全)などを併発し、命を落とすこともあります。乳幼児、高齢者、また、糖尿病、慢性肺疾患、がんなどで免疫能が落ちている人は重症化しやすいので、注意が必要です。WHOによれば致死率は27%程度ということです。

前述したとおり、2012年に発見された新しいウイルスですが、今までの知見に関してまとめてみたいと思います。

もともと、通常のコロナウイルスは、決して人に感染しやすいウイルスではありません。
それはMERSウイルスに関しても同様です。しかし、今回の韓国の例からわかるように、医療機関内では、ヒトからヒトへの感染が、一般集団と比して起こりやすいことはあきらかです。それは、医療施設内には免疫能が落ちた患者さんがいるからで、こうした状態の人は容易にウイルスのターゲットになりやすいからです。過去の報告でも、 一部の小児肺炎ではその原因ウイルスになっているとされており、乳幼児についての注意喚起も必要なところです。

それでは、同じコロナウイルスであるSARS とは、広がりやすさ、重症化しやすさにおいて、異なっているのでしょうか。2002年~2003年のSARS流行から、風邪症候群を引き起こすウイルスと同じように飛まつ感染という形式で広がりを見せることがわかりました。飛まつ感染とは、咳やくしゃみなどの”しぶき“内にあるウイルスが、他人の口や鼻の粘膜から入り込み、ウイルスが増殖をはじめることです。この感染症式に関しては、MERSウイルスもSARSウイルスも同じです。重症化のしやすさを示す一つの指標である致死率は、SARSが9.4%と報告されていますので、MERS の方が現状では高いことになります。
MERSは、ヒト、ブタそしてコウモリ等の間で、種を超えて容易に感染することが明らかにされており、SARSのコロナウイルスが、流行時にすでにコウモリに対する感染力を失っていたことと比較し、この点で大きな違いがあります。何を意味するかというと、仮にヒトでの流行が収束した後でも、他の動物の間で感染が受け継がれ、数年を経て、再度、ヒトに感染する可能性があるということです。

それでは、ヒトへの広がりやすさはどうでしょうか。
医学雑誌The Lancetの2014年1月号に掲載された論文では、MERS ウイルスが、患者1人が感染させる強さ(Reproductive number、Ro)は、0.8~1.3価の範囲内であり、1価(1人の患者が、別の1人に感染させる力価)を大きく上回ることはないと結論付けて、感染力がそれ程強くないと評価していました。この値はSARSもほぼ同様と報告されています。

しかし、2014年12月に発表された論文では、Roについて、もう少し高めの評価となっており、致死率も考慮すると、SARSウイルスに匹敵するか、もしくは、それ以上広がりと重症化を想定する必要があると結論されています。


また、MERSの場合の感染拡大の場としては、今回の韓国での流行と同様、医療機関での患者との接触、医療従事者を介した感染というのが、今までの例でも指摘されています。それ故、我が国でも、医療機関での感染拡大に関して、十分に備える必要があります。

現状の対策下では、検疫所による水際強化が主ですが、以上の知見を見る限り、国内発生に備えて、医療機関に対する注意喚起の徹底など、国内体制の構築を早急に進める必要がある事を、痛切に感じます。

2015年4月17日

BSL稼働と感染症危機管理

本稿は、大阪保険医雑誌2015年4月号に掲載された、「危機管理としての感染症」に、加筆・修正したものです。


 危険性の高い病原体を扱うBSL4施設の稼働に関して、現在様々な議論が沸き起こっている。本稿では、BSL4施設の問題を例にとって、我が国の感染症危機管理における現状について論じてみたい。4月10日付けの読売新聞ならびに東京新聞では、地域自治体住民がその稼働を巡って、武蔵村山市長に要望書を提出した記事が掲載された。内容は、「BSL4は住民に何の説明もなく設置され、立川断層の至近距離に位置する。事故や大地震、テロなどで治療法のない病原体が漏れない補償などない」として稼働を反対するものである。
BSL4は、エボラウイルス、天然痘ウイルスなどの、危険性の高い病原体を遺伝子レベルで解析する際に必要な施設である。現在我が国には2つのBSL4施設がある。国立感染症研究所の村山庁舎と、つくば市にある、理化学研究所バイオリソースセンターである。ところが、我が国ではその施設が、住民などの反対によって、稼働していない。このため日本学術会議は、すみやかにBSL4施設を稼働させるよう、平成263月に提言書を出している。
 こうした状況下で起こったのが、2014年のエボラウイルス疾患大流行である。エボラウイルス感染症の流行は、過去も起こっていたものの、今回は空前の大流行が起こった。ようやく新規患者数発生は減少してきたものの、WHOの経済難もあり、西アフリカに於いては未だ流行の収束をみていない。エボラウイルスは1976年、ザイールのエボラ川で発見された。発見当時、ザイールとスーダンで430人が死亡しており、少し前に発見されたマールブルグウイルスと同様、発見された土地の名前をとって、”エボラ“ウイルスと命名された。
エボラウイルスもマールブルグウイルスも、それまで見出されていたウイルスとは違った、新種のウイルスで、フィロウイルスという新しいウイルスのグループとして分類された。
ウイルスによって生成される糖タンパクが細胞壁の細胞に癒着し、血管透過性を亢進させることによって出血が起きる。重症になれば、全身から出血が起こって死亡する。致死率は4090%と報告されている。かつて全世界中が恐れた天然痘の致死率が30%程度とされているので、如何に強力なウイルスかうかがい知ることができる。その威力から、発見された当時からバイオテロの研究者たちを魅了し続けてきたウイルスである。日本では、TV番組、“ブラッディマンデイ”のモデルとなった事から記憶している方も多いかもしれない。
 この驚異的なウイルス流行は、311日現在、24247人の患者が報告され、うち9961人が死亡している(致死率41.1%)。過去21日間に発生した新規患者数は350人であり昨年1128日の2032人と比べると大きく減少している。しかし、新規患者発生が西アフリカの貧しい諸国であり、疾病に対する意識も含めて問題が大きい地域であることから、制圧に向けては、不安定な因子が多く存在している。
 今回のエボラ疾患大流行が大きな社会的関心を引いたのは、その数だけではない。今までこの疾患発生がなかった先進諸国にも飛び火したからである。アメリカ合衆国では4人の患者が出て、うち1人が死亡している。スペインでも死亡例はないものの、1人が発生している。我が国でも複数の疑い例が散見されている。


 感染症と人類の関係は四大文明にさかのぼる。エジプトのミイラから天然痘ウイルスや結核菌が発見されていることらも、その付き合いの長さを窺うことができる。かつての感染症は、予防法も治療法も確立されておらず、不治の病とみなされてきた。それが、衛生状態、栄養状態の改善、また、抗生剤などの治療薬の発見によって制圧されていった。現在、先進諸国においては、「感染症は過去の病気」という認識が一般的であろう。ところが、既に昔のものとなった感染症が、新たなる脅威として私たちの前に立ちはだかっている。こうした感染症の脅威には2つの種類がある。一つには、HIV/AIDSMERSに代表される新しい感染症の出現、そして二つ目は、既に制圧された感染症が、生物兵器として使われる可能性が出てきたことである。こうした感染症をとりまく状況に関して、WHO”Health Security“という言葉を使い始めた。この言葉から読み取れることは、「健康に関する事象はもはや安全ではない」という事に他ならない。
 繰り返しになるが、今回のエボラ流行は、感染症の脅威が既に過去のものとなっている私たちにとって、遠いアフリカでの出来事が身近な危機となる可能性を、まざまざと示した事例であったといってよい。


 これに対して、BSL4稼働が出来ていないというのはどういう事だろうか。ウイルス疾患に関しての確定診断は、遺伝子レベルでの解析が必要となる。ところが、それはBSL4でしか許されていない。また、ワクチンや治療薬の開発には、遺伝子操作が必要である。BSL4が動かないという事は、我が国ではこれらの事が出来ないという事である。世界を見てみれば、先進諸国のみならず、中国や南アフリカでもBSL4を稼働させており、韓国も稼働を急いでいるという情報もある。我が国では、エボラウイルスなどの遺伝子レベルでの取り扱いが実質的に不可能であることから、研究者らは、アメリカ合衆国にわたって研究を続けてきた。しかし、9.11後、テロに対するセキュリティ強化の一環として、外国人がこうした危険な病原体を扱う事に対して制限がかけられたため、日本人研究者は難儀しているというのが現状である。
 我が国は世界最初のバイオテロが行われた国である。20年前、サリン事件を起こしたオウム真理教が、成功しなかったものの、炭そ菌、ボツリヌス菌などの病原体を撒いていた事実は、世界を驚愕させた。そして、米国CDCはじめとする世界各国、またWHOではバイオテロ専門部門を設立したのである。前述した、Health Securityという言葉は、まさにオウム真理教のバイオテロを発端に使われ始めたといってよい。ところが、当の日本はといえば、海外諸国と比べて、バイオテロに対する敏感度が極めて低いといってよい。それはBSL4稼働がされていないという事実からも明らかである。
 国のあまりにゆっくりとした動きに業を煮やした日本医師会も、311日、BSL4の早期稼働を求める声明文を出している。今のところ4月には、感染研村山庁舎の施設が稼働することになっている。ところが、今になって、この施設の問題が明らかになってきている。それは、周囲環境、施設のキャパシティ、そしてすぐ近くを走る活断層の3つである。これらの問題をうけて、稼働に関する要請文も出されている。


 国立感染研・村山庁舎の歴史は古く、1961年の予防衛生研究所分室時代にさかのぼる。1981年建設のBSL4施設(現行稼働はBSL3)が設置された時は市民・市議会が激しい反対運動を展開し、以来、武蔵村山市は厚生労働大臣に、村山庁舎BSL4施設稼働停止状態の継続と、施設の移転についての要望を申し入れ、国もBSL3稼働にとどめていたという経緯がある。ところが、昨年11月、塩崎厚労大臣が武蔵村山市を訪問する異例の事態で状況が一転することになった。エボラウイルス疾患などに対応するため、BSL4施設としてつくられた村山庁舎の施設を、本来のレベルとして稼働させるという国の方針である。
 私は前述したとおり、BSL4施設の稼働は速やかに行われるべきであると考えている。しかしながら、数々の問題点が指摘されている村山庁舎が最適な施設であるか、考察してみたい。
まず地理的条件である。予防衛生研究所分室時代は周りに人家も少なく、サナトリウムがあった地域であったが、現在は住宅、小学校、小児療育病院、特別支援学校、特養老人ホームなどが隣接する住宅地である。海外でも住宅地にBSL4施設がある例がないとは言えないが、危険度の高いウイルスを扱う施設の周囲環境としては、最適とは言えない。また、BSL4施設の主な目的のひとつは、患者からの検体を同定することにあるので、当然患者を収容する医療設備が必要になる。施設の周辺には、特定感染症や第一種感染症疾患のケアをするのに必要な設備を備えた医療機関はない。特定感染症指定医療機関である、独立行政法人国立国際医療研究センターからの距離は約31Kmあり、交通事情を鑑みれば、一時間以上、一般道路を、バイオテロの兵器候補が輸送されることになる。この検体を運ぶのは検疫所や保健所の職員で、テロに対する訓練を受けた特殊な人材ではない。
次に、施設自体の問題である。村山庁舎は敷地自体が狭く、BSL4レベルを維持する、何層もの安全設備を構築するのは難しい。BSL4施設にはグローブボックス型とセーフティキャビネット型実験室の2つの種類がある。グローブボックス型はセーフティキャビネットに備え付けられたグローブで操作するタイプで、操作の自由度が限定されるという問題点がある。操作が自由に行えないことによって、針刺し事故などが起こりやすくなる。実際、過去アメリカ合衆国のグローブ型施設で、古い報告ではあるが、423件の実験室感染が報告されている(Hutton,1978)。他方、スーツ型では、実験室が宇宙服型の陽圧機密防護服を装着しているため、前面開放型のセーフティキャビネットで比較的自由に実験操作が可能となる。それ故、近年新設されているBSL4施設は殆どがスーツ型実験室である。
エボラウイルスではないが、同じ出血熱ウイルスであるマールブルグウイルスによる針刺し事例については、生々しい描写がされている。旧ソ連生物兵器製造組織(バイオプレパラート)の最高責任を務め、アメリカに亡命したケン・アリベック氏が、その著書「BioHazard(邦訳:生物兵器<二見書房>)の中で赤裸々に記述している。小さな針の一刺しによって、全身から出血しながら亡くなった実験者の例は、ウイルスの凄まじさをまざまざと示している。こうした危険度の高いウイルスを扱うのであるから、ヒューマンエラーを極力減らす努力をするのは当然のことであり、物理的にも安全な設備装置が難しい村山庁舎は、この点からも検討の余地がある。
それから、活断層に関しても指摘されている。武蔵村山市は東京府中市から走る長さ約30kmの東京で唯一の活断層、「立川活断層」の直下に位置する。村山庁舎はこの活断層から1.1kmに位置しているため、M7.4クラスの地震が起こった場合、その物理的被害は大きい。
以上、村山庁舎のBSL4施設としての問題点を列挙してきたが、当初から繰り返しているように、BSL4施設稼働は早急に行わなければならない。それ故、当座感染研村山庁舎をBSL4施設として稼働する事は止むを得ないだろう。しかし、当該施設は様々な因子を考慮して、最適な場所に建設すべきである。米軍の基地移転に関してもその選定に10年以上を要していることから、真に最適なBSL4建設用地についての選定は急務である。

最後に、これまでの議論をとおして、我が国の感染症危機管理に関して述べてみたい。BSL4施設の問題は、それに特化したものではない。すまわち、我が国の感染症に対する姿勢を示した一例である。ここから見えてくるものは、決して十分な対応がされていない現状であろう。前述したとおり、今後感染症の脅威は少なくなることは考えにくい。その中で、日本は感染症危機管理に対して脆弱である事を理解することが、まずは対策の一歩であろう。感染症対策は、健康・医療だけの問題にとどまらない。Health Securityという言葉の示す通り、国家の危機として、多極的な対応が求められる。